2007年03月04日 (日) | 編集 |
新日曜るかっち美術館へようこそ。今日のお題は
ムリーリョ作
-善き牧者としての幼児キリスト-
聖書にイエスの子ども時代の記述は少なく、
「ルカによる福音書」に1つあるだけ。
クリックすると多少拡大。
当時12歳のイエスのエピソード。
マリアとヨセフは過越し祭のためにエルサレムへ来ていた。
イエスも父親から様々な習慣や儀式を学ぶために同伴していた。
しかし、祭りの期間が終わってナザレの帰路についたとき、両親はイエスがいない事に気付く。
マリアとヨセフはイエスを探しているうちに、とうとうエルサレムまで戻り、神殿でイエスを見付け出す。
イエスは何をしていたかというと、律法学者たちの中心で教理について議論をしていたという。
律法学者たちは、イエスの知恵と雄弁さに「気を失うほど驚いて」いたそうだ。
のちの「律法の為に人があるのではない、 人の為に律法があるのだ」
との主旨である、
マルコによる福音書 2章 27節
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」
という言葉は、この時の議論も生きたのかもしれない。
私はこの考え方がどぅあーいすきなので、イエスが好きだ。
見つけ出したマリアは
「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と言った。
しかしイエスは、
「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えた。
つまり、神の子が居る場所といえば神の場所しかないではないですか。ということだ。
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
自分の子がやがて重要な役割を果たす神の子だとは思ってもいなかったからだ。
そりゃそうだわな。
そう言われたマリアはどうしたかと言うと、
「母はこれらのことをすべて心に納めていた」という。
マリアはイエスが言った言葉を理解できませんでした。でも、
「私にはわからない、この子にしかわからないことがあるんだわ」
と、そっと心を鎮めたのだろう。
理解ができなくても受け入れ、信じる。なかなか難しい親の態度ですね。
また、この話はイエスが子どもの頃から利発だった様子が伺えるエピソードでもある。
この絵の魅力は、幼児イエスの目だろう。威厳のある目。
物事のすべてを見透かすような目。
私の心もお見通し?!
いやー(/▽)ノ はじかち、はじかち。
穴があったら入りたい!
もぐらの気持ちがよくわかる!
家に飾ってあるこの絵が目に入ると、襟を立たせて風に吹かれる〜ぴゅう〜じゃなくて、襟を正さねば。という気持ちになるのだった。たまに。
ぼくも思わずひれ伏しちゃう!

しえー、お赦しくださいー。

ん?
寝てるでしょ。

プー父さんは、毎日毎日、キヤ/ンの工場で、偽装請負のしごとをしています。
偽装請負なので、最低限の保障すらありません。
ぼくは、父さんが僕たちや母さんや介護の必要なおばあちゃんのために働いていることを知っています。
夜中に物音がしたので起きたら、父さんが床に倒れていました。
息をしていたので安心して、毛布をかけてあげました。
長生きしてね、父さん。

泣ける話になってんじゃん。
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