2007-03-09(Fri)
若者難民は死しかないのか。
♪世界中に建てられてる どんな記念碑なんかより
あなたが生きている今日は どんなに意味があるだろう
by the blue hearts
意味あるってよ あるってね
先日歯医者へ行ったときの隣のおじいちゃんと先生の会話。
「お口の中っていうのは正直で、どうしても弱い所に出ちゃうんですよねぇ」
んんんんんん?
世の中と同じでは?と思った次第。
「お国の中っていうのは正直で、どうしても弱い所にでちゃうんですよねぇ」
何がって、問題がさね。
と、いうことは、んじやくひゃぎゃ、
もとい。今は口開けてなくてもいいのね。
弱者が苦しむ世の中は、不健康な社会だ!
弱者が幸せな世の中は、健康な社会だ!
てーことでさね。
還元されない重税大国ニッポンの、劣悪で低福祉な様子がよくわかる記事がありましたので、転載。
朝日OPENDOORSより
2007年1月号on the edge 崖っぷちに立つ若年フリーター 編集部・高橋純子
6畳一間の自宅アパート。DVDレコーダー、パソコンデスク、ゲーム機……お金になるものはほとんど売った
2006年9月11日。田島靖さん(仮名、31歳)は、千葉市内の福祉事務所を訪ねた。
収入も、貯金もない。8月中旬から、職を探して派遣会社やコンビニ、スーパーなど10社以上に履歴書を出し、面接を受けたが、全部落ちた。両親は10年前に離婚。母親とはそれ以後ほとんど連絡をとっていない。父親からは「援助しても意味がない。縁を切る」と言われていた。5歳しか違わない継母には、頼れるはずもなかった。
家賃はすでに4カ月、光熱費も2カ月滞納していた。電話は8月中旬に不通となり、電気は9月下旬に止めると通告されていた。
「なんとか助かる方法はないだろうか」。進退窮まった田島さんは9月4日、かろうじてインターネットにつながる自宅のパソコンに向かい、検索エンジンに「生活相談」と打ち込んだ。ホームレスの人たちのブログを読み、そこで初めて、生活保護という制度があることを知った。だが、働いていない人間が、お金をもらって助かろうというのは後ろめたく、すぐに申請する気にはなれなかった。「生活保護を受けるなんて、誰だって嫌ですよ」
1週間、「後ろめたい」と「助けてほしい」を何度も行ったり来たりしてやっと福祉事務所を訪ねた田島さんだったが、応対した職員は、田島さんの訴えをのらりくらりとかわすだけだった。それこそが、彼の仕事のようだった。
「法律的には、生活保護の申請は誰でもできます。でも簡単には受け付けられません」
「どうにかなりませんか」
「緊急貸付金という制度はあります」
「じゃあ貸してください」
「無理です」
一事が万事、この調子。「生活保護の申請には、就職活動をしているという証明が必要だ」というのでハローワークに行ったら、「電話も保証人もない人には仕事は紹介できない」と言われる。
また福祉事務所にとって返し、ハローワークはこう言っていると訴えると「それはおかしいですねえ」。それだけ。
話にならないので市役所の担当課を訪ねると、「それはおかしい。でも受け付けは福祉事務所だから、ここではどうすることもできません」。
結局、たらい回しで1日が終わった。徒労感が、空腹にこたえた。
翌12日も福祉事務所に行ったが、同じ担当者が出てきて、同じ説明を繰り返した。行政は助けてくれない。ネットで探した野宿者支援団体などに電話し、助けを求めた。
1件目、千葉市のNPOは「野宿者じゃないから支援できない」。
2件目、東京・山谷のNPOは「野宿者でなければ、具体的な支援はできない」。
3件目、山谷の別のNPOは「東京在住じゃないと支援できない」。
4件目、また別の山谷のNPOがやっと「東京在住じゃないので支援はできないかもしれないが、相談には乗る」と言ってくれた。
13日朝7時。自転車にまたがった。山谷までの電車賃はなかった。噴き出す汗を拭い、国道14号沿いをひたすら走った。おなかが減ってたまらないのに、この力がどこからわいてくるのか不思議だった。途中休憩を挟んで8時間。やっと着いた。
相談は1時間におよんだが、具体的な支援はできないという結論だった。お弁当とカンパン、テレホンカードをもらった。ハンドルにお弁当が入った袋を下げ、午後4時、千葉のアパートをめざして、また自転車をこぎ出した。
14日、また福祉事務所に行った。同じ担当者による同じ説明。また支援団体に電話をかけ続けた。「罪を犯して、刑務所に入った方が楽なんじゃないかな」という思いも、頭をよぎった。
17日、東京・山谷労働者福祉会館まで、また自転車を走らせた。山谷で日雇いの仕事ができないかと相談すると、台東区に「緊急一時保護センター」への入所を相談してみたらどうかとアドバイスされた。わずかなお米をもらって帰った。
19日、東京・飯田橋のNPO・自立生活サポートセンター「もやい」へ、また自転車で行った。相談すると、「福祉事務所の対応はおかしい」といって、メンバーが翌日千葉まで来て、生活保護の申請に立ち会ってくれることになった。2千円貸してもらい、ポケットにしまった。手持ちは30円しかなかった。
20日、「生活保護の申請をお願いします」。もやいのメンバーを同伴して福祉事務所を訪れ、事前に記入しておいた申請書を提出すると、これまでの対応がウソのように、あっけなく受け付けられた。あの、見慣れた顔の担当者だった。「これまでの説明は、いったい何だったのか」。全身から力が抜けた。
10月2日。区役所5階の銀行で生活保護費を受け取った。7万9900円と、家賃の3万1千円。まずは滞納していた家賃と公共料金を支払った。
田島さんに聞いた。「たらい回しにされ、さぞかし腹が立ったでしょう?」。しかし返ってきた答えは、「怒りとか、そういう感情はありませんでした。2週間もご飯を食べないという状態がどんなものなのかわかってもらえないと思いますが、とにかく助けてほしい、それしか考えられませんでした」。
福祉行政からは「若いんだから働けるでしょ?」と「タカリ」扱いされ、支援団体からは「野宿者じゃないから」などの理由で手を差し伸べてもらえない。田島さんのような困窮する若年フリーターは、粗いセーフティーネットの編み目から落ち、「見えない存在」にされてしまっている。
だが田島さんは怒らない。不当に扱われたり、「お前が悪い」と言われたりすることには、もうすっかり慣れっこになってしまっている。
数万円の貯金を切り崩して食いつないだが、6月には底をついた。このまま食べずにいれば死ねるかも、死ねたらいいなと、水だけを飲む日々が2カ月間続いた。
8月のある暑い日、台所に嘔吐した。見慣れた緑色の胃液ではなく、米粒大の黄色いツブツブがたくさん、流し台に広がった。朦朧とする意識。定まらない目線。「ああ、死ぬな」と思った。望み通りの展開だった。
それなのに、どこからかふと「まだ頑張れば、人並みの生活ができるかもしれない」という思いがせり上がってきた。はいつくばってアパートを出て、100メートルほど先にあった公衆電話の「緊急ボタン」を押した。そこから先は覚えていない。気が付いたら、救急車に横たわっていた。
55キロあったはずの体重は、35キロになっていた。医者からは「あと1日か2日遅かったら死んでいた」と言われた。
それから10年。パン工場や自動車組み立て工場、ラブホテルの清掃、交通量の調査員など、田島さんはさまざまな仕事に就いた。ほとんどがアルバイトだった。来る日も来る日も同じことを繰り返す単純労働。
職場は殺伐としていて、暴言を浴びせられることは珍しくなかった。JRの車両清掃の仕事では、職場ぐるみで「死ね」「消えろ」「辞めろ」と罵倒され、電車の戸に挟まれそうになったこともある。
父親のもとには、田島さんが生活保護を受けるようになったという連絡が行政から入っているはずなのに、音信不通のままだという。
「いまのところ、父に連絡するつもりはありません。働かざる者食うべからず、競争に負けた人がどうなろうと自己責任だという考えですから、僕の気持ちなんか理解してくれないと思います」
田島さんの父親が体現しているもの。それは、この社会がフリーターに差し向けている視線そのものかもしれない。
もし田島さんが餓死していたら、メディアは騒ぎ、社会はおそらく彼に同情を寄せただろう。彼のような人は、死ななければ世間に可視化されないのだろうか。
ここに出てくる「もやい」は随分前から知っていましたが、おお、やるじゃん!という感じです。
本当は、必要ないくらいの対応を行政がしてくれればいいんですけどね。
「働けるでしょ?」という言葉には、
健康な身体+働く場 = 働けるである。
という視点が抜けてるんです。
いくら健康でも、働く場がなければ、働けない。
頼れるあてもない。となれば、すぐに直滑降で餓死にいきついてしまいます。
論座4月号
「貧乏」を逆手に反撃が始まった 雨宮処凛 より以下抜粋
この10年の間に社会に出た若者たちはマトモな職にありつけず、一度フリーターになってしまうとなかなかそこから脱出できない。フリーターを積極的に採用したい企業はたった1.6%。運良く正社員になっても、10人分の仕事を3人でこなすような職場は当たり前に存在し、過労死・過労自殺、過労による精神疾患も減る気配はない。
千円以上の時給にひかれて製造業の派遣社員として働いても、寮費だ光熱費だ何だとさっ引かれ、手元に残るのは十数万円程度。正社員でも派遣でもフリーターでも、どんな働き方をしても若者たちはもはや、安心して生活できなくなってしまった。
一方、働かない若者には「ニート」「ひきこもり」などの罵声が浴びせられる。しかし彼らに「甘えている」「だらしがない」などと説教する年長世代は、自らの無知を露呈させてしまっている。
若者の生活がここまで不安定になってしまったのは、個人の心の問題や、やる気などとは関係なく、国際競争を勝ち抜くため、使い捨てにできる労働力のうまみを手放したくない企業の要請であることは明白ではないか。
しかし、若者たちの怒りは社会には向けられない。「自己責任」という言葉に縛られ、そうして怒りは自らへと向かう。リストカットという形で「役立たず」の自分を責めて自らの命を絶つ。02年から、20代、30代の死因のトップは「自殺」だ。これは、「『役立たず』は一刻も早く死んでくれ」というメッセージを、常にこの社会が放っている証左ではないだろうか。(略)
心を病むと働けない。しかし働かないと生きていけない。そこで突きつけられるのはリアルな餓死だ。一人暮らしか継続できずに、関係の悪い親元に戻ってすぐに自殺をした人もいた。働けない自分を責め、命を絶った人もいた。
「働かざる者食うべからず」という言葉は、もはや圧力ではなく暴力だ。貧弱な社会保障しかないこの国で、少しでもつまづいしまった人はそうして「役立たず」の烙印を押され、餓死に怯えるような生活に転落してしまう。
ぜひ全文をお読みいただきたいです。
自分の子どもを産み育てるどころか、自分を生かすのさえ大変な人も多いわけです。
若者が死ぬか生きるかで大変な思いをしているのに、子ども産んでくれなーい。結婚してくれなーい。と、社会の変化も汲み取らずに国も年長者もバッシングする。
20代、30代の死因のトップは「自殺」というのは、びっくりします。
とはいえ、私自身もロストジェネレーションに当たり、どんよりとした社会の空気しか知らないで育ち、かつては自殺願望のかたまり。いつ死んでもいい。自分はこの世にいらない。消えたい。と思っていた一人なわけですが。
がしかし、今は無駄死にしてはならんと。どうせ「年間3万人の自殺者」に埋もれるだけじゃけん。えーい、なんでもいいから楽しんじゃえ!いけるとこまでいこうじゃないか!という心境ですさね。

いけるとこまでね とこまでね
また他に、新しい生き方を示唆してくれている、
クリスマスに「商業主義・ぼったくり主義の象徴」六本木ヒルズの路上でこたつを置いて鍋を食べる「こたつ闘争」
「俺の自転車を返せデモ」
「家賃をタダにしろ一揆」
「三人デモ」
などを繰り広げて来た「貧乏人大反乱集団」素人の乱×高円寺や、
人間はカラフルなもの。にも書いたエノアールカフェも、ちょろっと載ってます。
○雨宮処凛 × 川田龍平
「生きづらい社会の中でしあわせに生きるには」
○るかっちWikipedia - 「再チャレンジ」「若者」
○NPO法人 自立生活サポートセンター・もやい
○素人の乱のサイト
三人デモ
あなたが生きている今日は どんなに意味があるだろう
by the blue hearts意味あるってよ あるってね
先日歯医者へ行ったときの隣のおじいちゃんと先生の会話。
「お口の中っていうのは正直で、どうしても弱い所に出ちゃうんですよねぇ」
んんんんんん?
世の中と同じでは?と思った次第。
「お国の中っていうのは正直で、どうしても弱い所にでちゃうんですよねぇ」
何がって、問題がさね。
と、いうことは、んじやくひゃぎゃ、
もとい。今は口開けてなくてもいいのね。
弱者が苦しむ世の中は、不健康な社会だ!
弱者が幸せな世の中は、健康な社会だ!
てーことでさね。
還元されない重税大国ニッポンの、劣悪で低福祉な様子がよくわかる記事がありましたので、転載。
朝日OPENDOORSより
2007年1月号on the edge 崖っぷちに立つ若年フリーター 編集部・高橋純子
6畳一間の自宅アパート。DVDレコーダー、パソコンデスク、ゲーム機……お金になるものはほとんど売った
2006年9月11日。田島靖さん(仮名、31歳)は、千葉市内の福祉事務所を訪ねた。
収入も、貯金もない。8月中旬から、職を探して派遣会社やコンビニ、スーパーなど10社以上に履歴書を出し、面接を受けたが、全部落ちた。両親は10年前に離婚。母親とはそれ以後ほとんど連絡をとっていない。父親からは「援助しても意味がない。縁を切る」と言われていた。5歳しか違わない継母には、頼れるはずもなかった。
家賃はすでに4カ月、光熱費も2カ月滞納していた。電話は8月中旬に不通となり、電気は9月下旬に止めると通告されていた。
「なんとか助かる方法はないだろうか」。進退窮まった田島さんは9月4日、かろうじてインターネットにつながる自宅のパソコンに向かい、検索エンジンに「生活相談」と打ち込んだ。ホームレスの人たちのブログを読み、そこで初めて、生活保護という制度があることを知った。だが、働いていない人間が、お金をもらって助かろうというのは後ろめたく、すぐに申請する気にはなれなかった。「生活保護を受けるなんて、誰だって嫌ですよ」
1週間、「後ろめたい」と「助けてほしい」を何度も行ったり来たりしてやっと福祉事務所を訪ねた田島さんだったが、応対した職員は、田島さんの訴えをのらりくらりとかわすだけだった。それこそが、彼の仕事のようだった。
「法律的には、生活保護の申請は誰でもできます。でも簡単には受け付けられません」
「どうにかなりませんか」
「緊急貸付金という制度はあります」
「じゃあ貸してください」
「無理です」
一事が万事、この調子。「生活保護の申請には、就職活動をしているという証明が必要だ」というのでハローワークに行ったら、「電話も保証人もない人には仕事は紹介できない」と言われる。
また福祉事務所にとって返し、ハローワークはこう言っていると訴えると「それはおかしいですねえ」。それだけ。
話にならないので市役所の担当課を訪ねると、「それはおかしい。でも受け付けは福祉事務所だから、ここではどうすることもできません」。
結局、たらい回しで1日が終わった。徒労感が、空腹にこたえた。
翌12日も福祉事務所に行ったが、同じ担当者が出てきて、同じ説明を繰り返した。行政は助けてくれない。ネットで探した野宿者支援団体などに電話し、助けを求めた。
1件目、千葉市のNPOは「野宿者じゃないから支援できない」。
2件目、東京・山谷のNPOは「野宿者でなければ、具体的な支援はできない」。
3件目、山谷の別のNPOは「東京在住じゃないと支援できない」。
4件目、また別の山谷のNPOがやっと「東京在住じゃないので支援はできないかもしれないが、相談には乗る」と言ってくれた。
13日朝7時。自転車にまたがった。山谷までの電車賃はなかった。噴き出す汗を拭い、国道14号沿いをひたすら走った。おなかが減ってたまらないのに、この力がどこからわいてくるのか不思議だった。途中休憩を挟んで8時間。やっと着いた。
相談は1時間におよんだが、具体的な支援はできないという結論だった。お弁当とカンパン、テレホンカードをもらった。ハンドルにお弁当が入った袋を下げ、午後4時、千葉のアパートをめざして、また自転車をこぎ出した。
14日、また福祉事務所に行った。同じ担当者による同じ説明。また支援団体に電話をかけ続けた。「罪を犯して、刑務所に入った方が楽なんじゃないかな」という思いも、頭をよぎった。
17日、東京・山谷労働者福祉会館まで、また自転車を走らせた。山谷で日雇いの仕事ができないかと相談すると、台東区に「緊急一時保護センター」への入所を相談してみたらどうかとアドバイスされた。わずかなお米をもらって帰った。
19日、東京・飯田橋のNPO・自立生活サポートセンター「もやい」へ、また自転車で行った。相談すると、「福祉事務所の対応はおかしい」といって、メンバーが翌日千葉まで来て、生活保護の申請に立ち会ってくれることになった。2千円貸してもらい、ポケットにしまった。手持ちは30円しかなかった。
20日、「生活保護の申請をお願いします」。もやいのメンバーを同伴して福祉事務所を訪れ、事前に記入しておいた申請書を提出すると、これまでの対応がウソのように、あっけなく受け付けられた。あの、見慣れた顔の担当者だった。「これまでの説明は、いったい何だったのか」。全身から力が抜けた。
10月2日。区役所5階の銀行で生活保護費を受け取った。7万9900円と、家賃の3万1千円。まずは滞納していた家賃と公共料金を支払った。
田島さんに聞いた。「たらい回しにされ、さぞかし腹が立ったでしょう?」。しかし返ってきた答えは、「怒りとか、そういう感情はありませんでした。2週間もご飯を食べないという状態がどんなものなのかわかってもらえないと思いますが、とにかく助けてほしい、それしか考えられませんでした」。
福祉行政からは「若いんだから働けるでしょ?」と「タカリ」扱いされ、支援団体からは「野宿者じゃないから」などの理由で手を差し伸べてもらえない。田島さんのような困窮する若年フリーターは、粗いセーフティーネットの編み目から落ち、「見えない存在」にされてしまっている。
だが田島さんは怒らない。不当に扱われたり、「お前が悪い」と言われたりすることには、もうすっかり慣れっこになってしまっている。
数万円の貯金を切り崩して食いつないだが、6月には底をついた。このまま食べずにいれば死ねるかも、死ねたらいいなと、水だけを飲む日々が2カ月間続いた。
8月のある暑い日、台所に嘔吐した。見慣れた緑色の胃液ではなく、米粒大の黄色いツブツブがたくさん、流し台に広がった。朦朧とする意識。定まらない目線。「ああ、死ぬな」と思った。望み通りの展開だった。
それなのに、どこからかふと「まだ頑張れば、人並みの生活ができるかもしれない」という思いがせり上がってきた。はいつくばってアパートを出て、100メートルほど先にあった公衆電話の「緊急ボタン」を押した。そこから先は覚えていない。気が付いたら、救急車に横たわっていた。
55キロあったはずの体重は、35キロになっていた。医者からは「あと1日か2日遅かったら死んでいた」と言われた。
それから10年。パン工場や自動車組み立て工場、ラブホテルの清掃、交通量の調査員など、田島さんはさまざまな仕事に就いた。ほとんどがアルバイトだった。来る日も来る日も同じことを繰り返す単純労働。
職場は殺伐としていて、暴言を浴びせられることは珍しくなかった。JRの車両清掃の仕事では、職場ぐるみで「死ね」「消えろ」「辞めろ」と罵倒され、電車の戸に挟まれそうになったこともある。
父親のもとには、田島さんが生活保護を受けるようになったという連絡が行政から入っているはずなのに、音信不通のままだという。
「いまのところ、父に連絡するつもりはありません。働かざる者食うべからず、競争に負けた人がどうなろうと自己責任だという考えですから、僕の気持ちなんか理解してくれないと思います」
田島さんの父親が体現しているもの。それは、この社会がフリーターに差し向けている視線そのものかもしれない。
もし田島さんが餓死していたら、メディアは騒ぎ、社会はおそらく彼に同情を寄せただろう。彼のような人は、死ななければ世間に可視化されないのだろうか。
ここに出てくる「もやい」は随分前から知っていましたが、おお、やるじゃん!という感じです。
本当は、必要ないくらいの対応を行政がしてくれればいいんですけどね。
「働けるでしょ?」という言葉には、
健康な身体+働く場 = 働けるである。
という視点が抜けてるんです。
いくら健康でも、働く場がなければ、働けない。
頼れるあてもない。となれば、すぐに直滑降で餓死にいきついてしまいます。
論座4月号
「貧乏」を逆手に反撃が始まった 雨宮処凛 より以下抜粋
この10年の間に社会に出た若者たちはマトモな職にありつけず、一度フリーターになってしまうとなかなかそこから脱出できない。フリーターを積極的に採用したい企業はたった1.6%。運良く正社員になっても、10人分の仕事を3人でこなすような職場は当たり前に存在し、過労死・過労自殺、過労による精神疾患も減る気配はない。
千円以上の時給にひかれて製造業の派遣社員として働いても、寮費だ光熱費だ何だとさっ引かれ、手元に残るのは十数万円程度。正社員でも派遣でもフリーターでも、どんな働き方をしても若者たちはもはや、安心して生活できなくなってしまった。
一方、働かない若者には「ニート」「ひきこもり」などの罵声が浴びせられる。しかし彼らに「甘えている」「だらしがない」などと説教する年長世代は、自らの無知を露呈させてしまっている。
若者の生活がここまで不安定になってしまったのは、個人の心の問題や、やる気などとは関係なく、国際競争を勝ち抜くため、使い捨てにできる労働力のうまみを手放したくない企業の要請であることは明白ではないか。
しかし、若者たちの怒りは社会には向けられない。「自己責任」という言葉に縛られ、そうして怒りは自らへと向かう。リストカットという形で「役立たず」の自分を責めて自らの命を絶つ。02年から、20代、30代の死因のトップは「自殺」だ。これは、「『役立たず』は一刻も早く死んでくれ」というメッセージを、常にこの社会が放っている証左ではないだろうか。(略)
心を病むと働けない。しかし働かないと生きていけない。そこで突きつけられるのはリアルな餓死だ。一人暮らしか継続できずに、関係の悪い親元に戻ってすぐに自殺をした人もいた。働けない自分を責め、命を絶った人もいた。
「働かざる者食うべからず」という言葉は、もはや圧力ではなく暴力だ。貧弱な社会保障しかないこの国で、少しでもつまづいしまった人はそうして「役立たず」の烙印を押され、餓死に怯えるような生活に転落してしまう。
ぜひ全文をお読みいただきたいです。
自分の子どもを産み育てるどころか、自分を生かすのさえ大変な人も多いわけです。
若者が死ぬか生きるかで大変な思いをしているのに、子ども産んでくれなーい。結婚してくれなーい。と、社会の変化も汲み取らずに国も年長者もバッシングする。
20代、30代の死因のトップは「自殺」というのは、びっくりします。
とはいえ、私自身もロストジェネレーションに当たり、どんよりとした社会の空気しか知らないで育ち、かつては自殺願望のかたまり。いつ死んでもいい。自分はこの世にいらない。消えたい。と思っていた一人なわけですが。
がしかし、今は無駄死にしてはならんと。どうせ「年間3万人の自殺者」に埋もれるだけじゃけん。えーい、なんでもいいから楽しんじゃえ!いけるとこまでいこうじゃないか!という心境ですさね。

いけるとこまでね とこまでね
また他に、新しい生き方を示唆してくれている、
クリスマスに「商業主義・ぼったくり主義の象徴」六本木ヒルズの路上でこたつを置いて鍋を食べる「こたつ闘争」
「俺の自転車を返せデモ」
「家賃をタダにしろ一揆」
「三人デモ」
などを繰り広げて来た「貧乏人大反乱集団」素人の乱×高円寺や、
人間はカラフルなもの。にも書いたエノアールカフェも、ちょろっと載ってます。
○雨宮処凛 × 川田龍平
「生きづらい社会の中でしあわせに生きるには」
○るかっちWikipedia - 「再チャレンジ」「若者」
○NPO法人 自立生活サポートセンター・もやい
○素人の乱のサイト
三人デモ



(c)るか



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